恵比寿野にて
出典: ウィキ
いざなぎが浜から、いざなみ山へと登る一本道の両側に荒野が広がっている。この荒野を恵比寿野という。
恵比寿野は万葉の世においては一般人が入ることを禁じられた「シメノ」であった。
「晩秋の出雲路 神話の旅」と書かれたガイドブックに読み飽きた男は車を降り、深呼吸をする。 幾分の期待を持って訪れた山陰旅行であったが、実際にはここには見るべきものはあまりないようだった。
ふと、見ると枯れススキの向こうに紫色の花が咲いている。それに近づこうと一歩、野に脚を踏み入れた男を、声が止めた。
「やめたがいいで。あの花はニセモンの花ですじゃ」
振り返ると、そこに赤銅色の肌をした漁師風の老人がいた。老人は首からカメラを下げている。
「いんやぁ、あんたどこから来なさったか知らんが、このあたぁは何もきれーなもんがないけん。あの花もニセモンの花じゃし、このへんの野っぱらは、穴がぼこぼこ開いとって、落ちたら生きて帰れんよ。ほかんとこに行ったほうがいいよ」
老人は笑いながら言う。
「あ、そうなんですか」
男もつられて笑う。
「ああ、土地のもんはみんな避けて通りますだ。ぶっそうなけんね。この辺は」
「シメノだったんですよね。このあたりは」
「ああ、そげ、そげ。あんまぁ、あぶないけん、来んように、そげしとったんじゃと思っとりますよ」
「じゃあ、町に戻りましょうか」
「そげ、しゃっしゃい」
「でも、なんでカメラを用意しておられるんですか」
「記念写真。あんたも一枚どげだ」
「ああ、でも結構です。バックが良くない」
「そげだ。でもけっこういい写真がとれる時もあるよ」
「光の加減かな。でも今日はこんなに空も曇ってるし」
「残念だね」
老人は寂しげに笑って、歩き始める。
男は車に乗り込もうとするが、その前にやはり紫の花が気になった。穴が開いているというが、花までの道は地面が見えている。安全そうだ。
男はガードレールを乗り越える。そして花の前までたどり着く。 老人が言うようにその花は本物の花ではなかった。造花か。少なくとも植物ではない。葉脈のようなものまでつけてあるが・・・・。
とその時、その造花がするすると伸び、男の首に巻きついた。逃れようとする男。しかし、花は一輪ではなかった。いくつもの花が男を締め上げる。
しかも、その花には刺があり、男の皮膚に食い込んでいくのだった。皮膚のなかに入った刺は成長し、男の筋肉を突き破る。さらに花は男の内臓深く侵入していく。男の身体はススキの原奥深く引きずり込まれる。男が最後に見たのは粘液にまみれた紫色の肉と乱喰いの牙であった。
「ああ、また、いい写真がとれちまったなぁ。おらぁ、いっつも注意しとるに、入るあんたらがいけんのだよ」
望遠レンズをつけたカメラのファインダーを目から外しながら、老人は言う。
老人は足元に落ちていたガイドブックを拾い上げる。一瞥すると、ニヤリと笑って放り投げた。
この土地を恵比寿野と表記するようになったのは明治5年よりのこと。 それ以前は蛭子野と表記した。 蛭子とは言うまでもなく、イザナギ、イザナミの間違った婚姻の儀式によって生まれた 最初の子であり、形を持たぬ妖神のことである。
