祖母の死と手招きするタオル

出典: ウィキ

それは小学校5年生の時のこと。その頃の私はすぐに風邪をひいて熱を出したもの だった。今でもそんなに丈夫じゃないほうだけど、その頃の私は明かに虚弱 な身体をしていた。
 その日、私は風邪をひいて小学校を早退した。2月はじめの寒い、寒い日だった。
 咳が止まらず、肘や肩が重かった。頭はぼんやりして、景色はおぼろに霞んでいた。夏の日、学校のプールのなかで目を開けた時みたいだと私は思った。
 粉雪が舞っていた。鈍色の低い空から落ちてくる白い結晶はその地方特有の強い北西の風を受けて、横殴りに平野を吹き抜けていく。その地方の雪は降り積もるのではなく、電柱や家の外壁に吹きだまっていくのだ。
 その夜、ずっと病床にあった私の祖母が自宅で死んだ。

 真夜中寝ていた私を母が揺り起こして
「おばぁちゃん、死んじゃった。あんた最後に挨拶できなかったね」と言った。
 私はそれを夢のなかで聞いたような気がして、
「うん」とだけ言ったように思う。
 たくさんの足音とたくさんの大人たちの声が聞こえた。お客さん、こんな時間になんで、と私は一瞬思ったけど、その次にはもう何も考えることができなくなっていた。足下に大きな黒い穴が空いて、私はそれに飲み込まれていった。恐い夢を沢山見た。
 翌朝、烏が鳴いていた。
 2月の寒い一日の始まりだった。
「ああ、やっぱり嗅ぎつけたか、奴等」と父は言った。
「何?」と私。
「奴等は死人の匂いに寄ってくる。気をつけないとな。おばばをさらわれるぞ」
「そんなことあるの」
「昔はな」父は言った。
「早く刀を持ってこい。奴等は金物を恐れる」
 母が倉から古い日本刀、脇差しの持ってきて、死んだ祖母の死体の胸の上に置いた。
 通夜は静かに行われた。
 祖母の死体は焼かれることになった。
 親族である私たちは死体と一緒に町外れの丘にある火葬場までマイクロバスで向かう。
「ねぇ、人は死んだらどこへ行くの」
 車中で私は母に訊いた。
 母は黙っていた。かわりに父が言った。
「死んだら。終わりだ。バカなことを考えるな」
「魂は?」
「魂。そんなものはない。魂を見たことがあるか」
「ん、ない。見えないんだ」
「見えないものは、ない」
「じゃあ、電気は。電気は見えないけどあるよ」
「電気はテスターで計れば見える。電気の火花も見える。見えるものは、ある」
 その頃、父は電気技師の仕事をしていた。
「魂のテスターはないの」
「ない。計れない。だから魂について考えることはばかげたことだ。時間の無駄だ」
「奴等って、何?」
「何のことだ」
「朝言ってたでしょ。奴等が来るって」
「奴等は烏だ。烏の形をしたものだ」
「でも、烏じゃない?」
「そうかもしれない。そうでないかもしれない。見たことのないものは分からない」
「なんか、恐いよ、あたし」
「そうだ、恐い。それが『死』だ」
 火葬場には汚い身なりをした中年男がいる。
 彼は町からはじかれ、あるいは逃れてここに来た男だという。
「ここに住んでいるんですよ、私は」
 男は言った。
「さみしくないですか。ここ」
 叔母が言った。
「ええ、そうですね。だから友達と一緒です。紹介しましょう。おいで」
 男が呼ぶと、奥の扉が開き、子牛のように黒い大きな犬がのっそりと現れた。
「クロといいます。挨拶しなさい、クロ」
 男は言ったが、クロはまた奥の部屋に戻ってしまった。
「人に慣れていませんでね」
 男は油じみた頭を掻いた。
 重油バーナーで死体は焼かれた。
「最大2000度。1時間半から2時間で仏様は灰になります。今は冬だからちょっと時間がかかります。それまで待合所でお待ちください」
 言い慣れているのだろう。よどみなく男は言った。
 私たちは待合い所でその時を待った。
「途中で生き返る人なんていないんでしょうね。声が聞こえるとか」
 母は言った。父親はそれを聞いて顔をしかめた。
「はぁ、もしそんなことがあれば扉を開けます。が、そんな声を聞いたことは一度もありません。あ、ちょっと様子を見てきましょう。万が一ってことがある」
 男は出ていった。
「嫌な奴だ」
 父は言った。
 小一時間が経過した。
「ちょっと、出てくる」
 父が言った。
「あ、お手洗いなら、なかよ」
 と母。
「そうじゃ、ない。見てくる」
「あ、あたしも行く」
 私は言った。
「外の空気は良くない。ここにいろ」
 と父。
「見たいんだ。あたしも」
「そうか、じゃあこい」
 のぞき窓から見ると中は炎に染まっていてよく見えなかった。
「けっこう、いい温度が出てそうだ」
 父は言った。そして、ポケットから煙草を1本取り出し、炉の扉の部分に近づけた。それは熱によって点火された。父は煙草を吸い、白い煙を吐き出した。
「煙は高いところにのぼる。見ろ」
 父は煙草を持った左手で上を指さした。
 鈍色の空に向かって火葬場の煙突から黒煙がたち上っていた。
 それは父が手にした煙草に似ていた。
「おばばが天にのぼっていく。見ておけ」
 火葬場の煙は空に溶けていく。
 男が言った通り2時間近くで祖母は灰になった。
「どうぞ。釜を開けます」
 男が言った。
 私たちがそこに行くより早く、黒い影が走った。
 先ほどの犬、クロだった。
「クロは寒がりなんです」
 男は言った。
 クロは炉の前に横たわり、嬉しそうに尻尾を振っていた。
 私はこの犬が大嫌いになった。
 祖母の骨は白かったが、所々に赤い部分があった。
「赤いのは病気のあった場所です」
 男が説明した。
「最後はみんなこうなるんだわね」
 母が言った。
「そうだ。そして墓に入る。おばばは幸せだった。知ってる人間のいる場所で死ねて」
 と父。
「そうなの」
 と私。
「そうだ。きちんと終われた」
「あたしにはよく分からないよ」
 その時の私は祖母が死んだということをうまく理解できていなかったのだ。
 それが理解できたのは、葬儀も終わり静かな毎日がまた始まったころだ。
 食卓のいつもの場所に茶碗がない。
「あ、おばぁさんの分は」
 母に言った直後に私は気づいた。そして、止めどもなく涙が出てきた。
 私はそれから鳴き通しで3日間学校を休んだ。眠ろうとして天井を見上げるとひょっとしてこれが最後に見た光景になるのではないかと、恐かった。そしてまた泣いた。私はずっと祖母のことを考えていた。
 学校を休んで3日目、久しぶりに風呂に入り、また祖母のことを考えていると、タオルハンガーにかけてあったタオルが垂直にあがり、私に手招きをした。
 私は悲鳴をあげ、全裸で居間にかけこんだ。
「お前が考えすぎるからだ。動け。動けば忘れられる」
 父は言った。
 そして、私は次の日から学校に行った。
 それ以降私は手招きするタオルを見たことはない。(未完)