Day-tripper
出典: ウィキ
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out!
午前6時。毎朝発令される紫外線警報のサイレンでアンは起こされた。
大きく伸びをして、廃屋となったドライブインの暗がりのなかで、彼女は身支度を始める。
寝袋をたたみ,ブーツを履く。ひからびたパンを,オレンジジュースで胃袋に流し込む。
ゴーグルをかけ,ヘルメットを被る。手袋は一番最後だ。
荷物をバイクの後部シートに括りつけ,モーターをスタートさせる。
電気式のモーターはデザインされた心地よいノイズを発しながら回転を始める。
クラッチを握り,ギアをローにセットする。ゆっくり左手を離していくとバイクはゆっくりと前進を始める。
これら一連の動作は毎日繰り返されているので、無駄がない。洗練されているといってもいい。10分足らずの時間で彼女の朝の支度は終わる。
遮光ゴーグル越しに見える空は赤くかすんでいる。
景色がかすかに震えるのは,モーターの振動にバイクのフレームが共振しているせいだ。
アンはスロットルを一杯にあける。モーターの回転があがるにつれ,共振がおさまってくる。ギアを一つ上げ,さらに加速。風の音にかき消されて,モーターの駆動音も聞こえなくなった。
風の音だけが耳に届く。これがバイク乗りの至福の時間だ。
アンは16歳。黒い髪と瞳、白い肌を持っている。血液型はB型。星座は蠍。身長は168センチ。スリーサイズは最近計っていないが,そこそこ身体に自信はある。
彼女は街から街へと気ままな旅を続けている。先のことは知らない。心配ごとがないといえば嘘になる。それでも風を愛してしまったら旅を続けていくほかに生き方はない。
毎日風は別の歌を歌う。ある時は優しくある時は強く。遠く,そして近く。今日の歌は向かい風の激しいリズムでアンの全身を震わせる。
旅を続けると風の色さえ見えるようになると年老いたバイカーから聞いたことがある。それが本当かどうかアンには分からない。でもそれを確かめるためだけにでも毎日旅を続ける意味はあるとアンは思う。
宣教師
しかし,風の歌の時間は黒衣の男の出現によって終わった。
男は両手を広げ,アンに向かってきた。止まれ,ということらしかった。アンはブレーキをかけ,バイクの速度を歩く速さぐらいまで落とさなければならなかった。というのも男の右手に拳銃が握られていたからだ。
左手には緑色をした地球を型どったバッチを持っていた。男は環境保護団体「グリーンアース」の宣教師だった。
「そんなに急いでどこへ行かれるのです」
銃口をアンに向け,宣教師は言った。口調は丁寧だったが態度がそれを裏切っていた。宣教師は銀縁の遮光ゴーグルをかけていたが,その下には凶悪なまなざしが隠されているに違いなかった。
「商品を運んでいます」
アンは答えた。それは決して嘘ではなかった。
「見たところ荷物はないようですが」
「このバイクが商品です」
今度のアンの返事は嘘だった。アンは何も持っていなかった。もし持っているとすればそれはもっとも古典的な商品ということになるだろう。商品とは,つまりアン自身のことだ。
「ほほう」
バイクに乗ったアンを値踏みするように少しずり下がったゴーグルを左手で押し上げながら宣教師は言った。
「これは何というバイクです。商品モノならそれぐらいの知識はあるでしょう」
「エレクトラ,ドイツ製です」
「バイクは貴重な酸素を消費します。売ってはいけません。知っていますか」
「でもこれは電気式です。酸素は消費しません」
「電気を作るための火力発電所は酸素を多量に消費しています。だから地球が駄目にになる。私は地球の敵を許すわけにはいかない」
宣教師はアンのバイクに銃口を向けた。
「このバイクを動かしている電気は家庭用の太陽電池で充電した物です。酸素は使っていません」
しばらく男は黙っていた。そして言った。
「あなたは現在の地球の状態についてどう思いますか」
宣教師のお決まりの台詞だった。アンもステロタイプの受け答えをすべき場面だ。
「地球は甦ります。だって,みんな努力しているんですもの」
そのせりふは我ながらとても陳腐に聞こえた。説得力なんてこれっぽっちもなかった。
「どんな努力をですか」
宣教師が詰め寄った。
「太陽電を屋根にとりつけ,脱石油工業化政策に従っています。国連のオゾン層再形成プロジェクトのために週3時間の労働も」
「それは当然のことです。あなた自身は特別にどんな努力をしていますか」
「私は‥‥‥」
「どうです。あなたの地球環境に対する愛を形にしてあらわしてみるのは」
始まった!結局これが言いたいのだ。
「今すぐできること。それは我々の団体に寄付することです。「グリーンアース」があなたの寄付金で人工酸素製造プラントをお作りします。無公害のハイドロジェットで地上50KMまで飛び,上空にプラズマを発生させ,オゾン層を再生させます。我々の運動にご協力ください」
宣教師は左手を差し出す。右手には彼らの飛行機と同じ原理で発射されるハイドロジェット拳銃が鈍く光っている。環境宣教師「グリーンアース環境保護活動拡張部員」は人間の命より地球のほうをずっと愛している。だから人を殺すときも地球にだけは優しいのだ。
アンはしぶしぶ防護服のポケットからなけなしの紙幣を取り出し,宣教師に渡した。
こいつらの正体が環境問題を食い物にするダニだっていうことはみんな知っていることだ。アンの寄付金だってどこで何に使われるか分かったものではない。
美しい地球をとり戻すことより,こいつ等を根絶やしにするほうがずっと重要な課題だとアンは思う。
「ありがとうございます」
宣教師は銃口をアンから外した。
アンはバイクのスロットルを開けて,立ち去ろうとした。
背後で宣教師の声がした。
「エイズには十分お気をつけください。最近は特効薬も効かない突然変異種が流行ってますから」
ちきしょう。宣教師のやつ,すべてお見通しだったってわけだ。
アンは振り返り右手の中指を突き出した。
今時,外をほっつき歩いている奴にろくなのはいない。そんなことアンだって百も承知だ。どんなものでもオンラインで取引できる時代に。
でも,行ってみなけりゃ,やってみなけりゃ掴めないことだってきっとあるはずだ,とアンは思っている。アンは経験主義者だ。
地球のことを考えてみたって始まらない。答えはいつだって同じだ。
救いなんてありはしない。
立ち枯れた街路樹がそれを教えてくれている。誰もいない通りがそれを証明してくれている。道ばたに転がった死体を避けてアンはゆっくりバイクを走らせる。かつて人口200万を誇ったこの街もいまやネクロポリスと化している。動植物はアンが生まれる前に死に絶え,残された人間達も毎日ばたばたと死んでいく。クスリの使い過ぎで,エイズで,紫外線に焼かれて,殺しあって,そして自ら命を絶って。
狂ったこの世界の時計の針を戻すことは,ほんとはもう誰にもできない。そんなこと考えたって時間の無駄だとアンは思う。それより今日自分が生きていくために何をすべきか考えないと,ハードな世界を生き残れない。
ドールハウス
工場地帯のはずれ,黒い海に面した寂しい場所にサキの「ドールハウス」がある。
アンは店の地下駐車場に自分のバイクを入れる。
入り口にあるセキュリティのスリットにカードを通し,4桁のIDを入れる。ゲートが開き,地下に向かって延びるスロープが現れる。ライトを点灯させ,ゆっくりと道を下っていく。背後でゲートの閉じる音が大きく響いて,いつもアンは驚かされる。何度この道を通っても慣れることがない。地獄へ向かって延びる暗いくらい道。
門は閉じられた。仕事を終えるまで,私に出口はない。
長い廊下を歩いて,空いた更衣室を探す。ドアの上に赤いランプがついていないのが空室だ。廊下を半ばまで来たとき,ランプの消えた部屋がみつかった。
カードを使ってドアを開ける。更衣室は窓のない狭い個室だ。部屋の奥には商売道具を入れたロッカー。その隣には部屋へ通じる細いドアがある。そして天井からは可動式の細いチューブがぶらさがっている。部屋には行った瞬間,黒いドレスを着た女が現れ,ドールハウスの説明を始める。この女がサキ。もちろんその姿は録画された立体映像だ。
ようこそ,ドールハウスへ。私はこの店のオーナー,サキと申します。あなたのより円滑で安全な業務の遂行のために,「ドールハウス・システム」の概要と,業務機器の説明をさせていただきます。
ドールハウスは1998年,イギリスで開発された最も安全な慰安システムです。正しく運用された場合のAIDS感染率は,顧客がすべてキャリアだった場合でもゼロ。もちろん妊娠の心配もありません。
その秘密は非透過性のボディスーツにあります。ロッカーを開けて実際にスーツをご覧になってください。
このスーツは厚さ0.75ミリのラテックス樹脂で形成されています。スーツによってあなたは外部の危険から完全に遮断されます。装着に当たっては業務終了後脱ぎやすいように必ずロッカーのなかにある潤滑用ゼリーを全身に塗布してください。
さらに説明は続くのだが,アンは壁のスイッチを押しサキの立体映像を消した。すでに何回もドールハウスで「業務」を行い,経験は十分だったから。
アンは更衣室でシャワーを浴びる。3日ぶりだった。
いかに風と生きるといっても,生きる糧を風は与えてはくれない。ドールハウスでの仕事は生存のための必要悪のようなものだった。
倫理的にどうだとか,世間体だとか,そういうことをアンは考えない。少なくとも今はそんなことを考えている余裕はない。生き残ること。生き続けること。そのためには手段は選べない。ストリートで商売をするのに比べて確かにドールハウスはメリットが大きかった。シャワーつきというところの魅力もあった。
服を脱いで髪を束ね,アンはすばやく全身にゼリーを塗る。首筋から肩,腕,胸といったように上からむらなく塗っていく。
ゼリーを塗り終えたら,ロッカーからスーツを取り出す。「消毒済」と書かれたパックを破って出てくるは人型の白い樹脂皮膜。足から順にスーツの中に身体を入れていく。なんとか全身がスーツのなかに入ったら,背中のファスナーを引き上げる。最後に脚の間に垂れ下がった避妊袋を身体の中に押し込む。顔にマスクを被って完成となる。
マスクを被る前にアンは脱ぎ捨てた紫外線防護服のポケットからピルケースを取り出した。なかには黄色い錠剤がたくさん入っている。これがアパシーだ。アパシーは大脳の新皮質にだけ作用し,思考を鈍らせるクスリだ。思考が鈍ると本能の働きが活発になるため催淫効果もある。錠剤を1つずつ口に入れ,全部で10錠ほど飲んだ。これから始まる「最も古典的な仕事」を助けるためにアパシーは最適なのだった。
マスクを被る。これも感染防止のために開発されたもので,半透明な樹脂できている。口には呼吸用のマウスピースがついていて,それを天井からぶらさがったチューブと繋ぐことで,殺菌済みの清潔な空気を吸うことができる。チューブは天井に仕切られた溝を自在に動き,アンの身体の動きに常について来る。
奥のドアを開けるとそこは更衣室より狭いシャワー室になっている。さらに奥にドアがある。壁のボタンを押すと,天井の金色のノズルから,体温と同じ温度に調節された潤滑液が噴出する。どんなに大量の潤滑液が降ってきてもアンの呼吸はチューブから送られる空気で守られている。すぐにシャワーは止まる。ラテックススーツの表面は軟体動物の皮膚のようにぬるぬるになる。潤滑液のついた指を避妊袋の中につっこみ,中も十分湿らせておく。こうしておくと,袋が破れる事故に遭う確率が下がるし,客も喜ぶのだ。
奥のドアが自動的に開く。そこはさっき着替えた更衣室によく似ている。違っているのはその部屋の床を覆わんばかりに,青いウォーターベッドが置いてあること。そしてそのうえにいやらしく笑う太った中年男がトドのように寝そべっているくらいだ。ここがアンの神聖なる職場ということになる。
男の濁った笑いに,一瞬吐き気がアンの背筋を走る。でもそれはすぐにおさまってくれた。アパシーが効いてきたのだ。
マスクを被ったまま戻したりしたらエアチューブがつまり息ができなくなる。こんなことで死んでいくのはたまったものではない。
男がアンに跳びつき,身体を押し倒す。ラテックス越しにアンの乳首を吸う。
自分の持ち物をアンのそこに突っ込む。入れて出して入れて出して。ラテックスの皮膜越しに私の乳房をまさぐる手。でもアンは何も感じない。アパシーの効き目のせいで意識は身体と切り離されている。
本能と習慣に任せておけばいい。アンの身体は働き者だ。男は私の抜け殻を抱いているだけ。
その間,アンの心は,男の単調な動きに触発されて,長距離列車の夢を見ていた。
列車は走り続ける。私の知らない国へと。鋼鉄のレールの交わる消失点の彼方,まだ見ぬ世界へ。力強く回る鋼鉄の車輪。私の肌を焦がさない優しい日差しを浴びて。窓の外を眺めれば,そこは一面の緑。白い花をつける草と,花の蜜を吸う黄色い蝶の群。遠くには黒い森があって,その遥か向こうに見える山は青く煙っている。私は走っていく。
気がつくとアンは職場に戻っていた。大股開きのみっともない姿でベッドの上に倒れている。
客はもう帰ってしまっていた。
私は涙を流したようだ。マスクのレンズが曇っていた。目が痛い。ついでに言えば体中が痛い。しばらく旅していた間に,アンの身体はずいぶん乱暴に扱われたらしい。
しかし文句を言う筋合いはない。アンの身体は買われていたのだから。その間商品でをどう扱おうと客の勝手だ。
ここでのアンは「生きた人形」。全身を人工樹脂で覆った清潔なセックスマシーン。誰かが入って誰かが出ていく。また別の誰かがやってきて,身体を使う。それがドールハウスでのアンのすべてだ。労働には賃金が支払われる。その交換レートが相場に比べて高いのか,安いのか,アンには分からない。
身体がガタピシしているのは1時間ほどで治った。しかし,ドールハウスでの仕事はあまりいいものだとは思えない。理由はよく分からないが,嫌な感じがするのだ。どこかで,魂の問題,という声がする。いつかもっといい稼ぎ方を考えなければならないだろう。
うんざりした気持ちを抱えたままで,アンは湾岸通りを抜けて,6車線の国道に出る。 チェンの店に向かうことにした。
チェンの店
チェンの店の前にリカコの車が停めてあった。20世紀のイタリアで作られたボディに日本製の最新式モーターを積んだハイブリッド22という型だ。ウィンドー全面に紫外線避けに最上質の遮光スクリーンを張ってある。これだけでも驚くべき投資だ。つややかな黒のペイントとクロームメッキの輝きはゴーグル越しでも目が痛いくらいだ。走る芸術品と呼べるその車体の横にアンは無骨なバイク,エレクトラを並べる。
チェンの店は昼間しか開いていない。静かな店内は,やわらかな照明と素敵な音楽で満たされている。そしてこの店には合成ではない本物の食べ物がある。そして言うまでもなく勘定は少しばかり高い。
店に入ると,客はリカコしかいなかった。リカコはキメていた。アンはリカコのことをよく知らない。こうやって店で一緒になったりすることはあるが素性がよく分からない。 彼女は金とドラッグに不自由しない。アンがいつも使っているアパシーなんかよりずっと効くやつをやっている。
「今日はジャンキーしかこないな」
薄明かりの部屋のなかでもサングラスを外さないチェンが言う。チェンはニューヨーク生まれで日本国籍を持つ華僑だ。オールバックの髪に,真っ白なシャツ,趣味のいいネクタイ,プレスのよく効いたパンツ。服装はいつだってきまっている。センス抜群。この店の内装も全てチェンが自分でデザインしたのだと言う。アンの好みのタイプ。でも残念なことにホモセクシャルだという噂だ。
「酒を飲みなよ。浴びるほど飲んだ方がいい。少なくともクスリよりは健康的だよ」
チェンは言う。この商売人め,とアンは思う。
アンはとりあえずソルティドッグを注文してリカコの向かいの席に着く。
テーブルの上には見たこともない緑色をした錠剤。リカコはとろんとした表情でただ天井の一点を見つめている。アンはリカコの見ている夢を知りたくなった。緑色のクスリを1錠だけ失敬して口のなかに入れる。クスリの表面を被っている糖衣を舌で溶かし,軽く前歯で噛むと,甘ったるい仮面を破って刺激的な本性が顔を出す。あっと言う間にアンの口の中は麻痺する。こいつは強すぎる。
「リカコが使ってるのはロケットみたいに強力なやつだ。止した方がいいんじゃない」
酒を持ってきたチェンが言う。
「よけいなお世話。ロケットだろうが,核ミサイルだろうが,私はきちんと操縦してみせる」とアン。
思い切って錠剤を飲み込む。
しかし,アンは飛び損ねた。落ちていく。ロケットは墜落。地面を突き破って奈落の底へまっ逆さま。
bad dream
そこは渦巻く蛇の巣。蛇は私の顔を持っていた。全身に開いた穴という穴から侵入する蛇。私は私に喰われ,私に犯される。私は私のなかに閉じこめられる。黒い夢。私は何処にも行くことができない。
「誰か助けて!」
左手が溶ける。右手が火を吹く。右脚がちぎれる。左足が爆発する。だるまになってしまった身体のなかを這いずり回る蛆虫。口からほとばしる叫びは蝿の群に変わる。
頭蓋骨を喰い破って出現する濃緑色の蛭には黄色い縞模様。そいつが口を開ければ赤い血がほとばしり,銀色の牙に糸引く白い体液。
気絶しようとしても意識はなくなってはくれない。私の下腹からしたたり落ちる茶色い血膿。産み落とされる赤い魚。生まれながらにして死んだ魚が泳いでいく。
ここは私の世界だ。ここは私だけで満たされている。私が,私の,私に,私を,私のもの・・・。不快と痛みだけが支配する私の王国。
しかし,その時,自分だらけの宇宙に裂け目が生じ,青白い光が届いた。アンは光に向かって跳んだ。誰かの手がアンをひきあげてくれている。この手は一体誰の手なんだろう,アンは思う。
目覚めたアンの目に入ってきたのは光の洪水。すべてが結晶化して輝いている。
光のなか,幻のように浮かぶ2つの影が見えた。
影の一方がアンの腕をとり,青い光の塊を押しつける。鋭い痛みでそれが注射器らしいことが分かった。
注射のせいか,アンはまた目を開けていられなくなる。頭が重い。今,アンにできるのは耳を澄ませることだけだ。
目覚めたアンの目に入ってきたのは光の洪水。すべてが結晶化して輝いている。
光のなか,幻のように浮かぶ2つの影が見えた。
影の一方がアンの腕をとり,青い光の塊を押しつける。鋭い痛みでそれが注射器らしいことが分かった。
注射のせいか,アンはまた目を開けていられなくなる。頭が重い。今,アンにできるのは耳を澄ませることだけだ。
男の声と女の声。一方はチェン。しかし,もう一方,女のほうは分からない。どこかできいたことのある声だがアン思い出すことができない。
「アンもあなたの奴隷にするつもりですか」
とチェン。
「彼女をどうしようと,あなたには関係ないことよ」
と女の声がきっぱりと言う。
「ありますね」
「どうして」
「彼女は僕の店の客だ」
チェンの言葉に女は笑った。それは傲慢な笑いだった。
「じゃ,こうしましょう。彼女の勘定は今すぐ,私が払うわ」
ハンドバックを開くパチンという音。携帯電話の発信音。しばらくして
「店の口座に代金を振り込んでおいたわ。これで,この娘とあなたは無関係よ」
勝ちほこったように女は言った。
「現金でしか商売しない主義なんですがね」
「あなたも妙なところで突っ張るわね。そんなところは昔から変わらない。そろそろ大人になってちょうだい」
「あなたのようにですか。母さん」
「その呼び方はやめなさい。もうあなたの母親ではないわ」
「あなたは昔から勝手だ」
チェンは吐き捨てるように言う。
「言ってるがいいわ,坊や。でも今日のところはこのまま帰ってあげる。今度は必ずこの娘をもらうわ」
笑いながら歩み去る女。小さくなっていくハイヒールの靴音。
そこまでで限界。アンはまた眠りの暗い穴に落ちこんでいく。
依頼
頭のなかがひっくり返る。そして吐き気。口の奥のほうに苦くて酸っぱい唾が溜る。薬の副作用だろうか。今度の目覚めはひどく辛い。赤ん坊が泣きながら生まれてくるのも快い眠りを妨げられるからに違いない,アンはそう思った。
「白雪姫,ごきげんいかがで」
おどけた調子でチェンが言う。
「気分は最悪よ。でも助けてくれてありがとう」
「礼なら,こいつに言って欲しいな」
チェンは右手に持った注射器を見せる。
青いシリンダーのなかに入った薬液にアンの血が混じっている。ガラスにつけられた色のせいで血は茶色く濁って見える。穢れた血。アンはぞっとする。
「何を注射したの?」
とアンは尋ねる。寝起きのアンの声はザラリとかすれ,自分自身の神経を逆撫でる。
「解毒剤とアルコール。酒を混ぜたほうがこのクスリの毒は早く抜ける。今の君の頭痛はクスリのせいじゃなくて,いわば二日酔いだ。心配しなくていい」
「荒っぽいやりかたね。もしあなたが医者だったら,私はあなたを訴えているわ」
「残念ながら僕は医者ではない。父は医者をやっていたがね。僕が持っているのは薬剤師の免許だけだ。普段はエタノールを専門に扱っている」
これがこの男の冗談らしい。あまり愉快な冗談とは思えないが。
「眠っている間に夢を見たわ。ひとつは私の身体がはじける夢。そしてもう一つはチェン,あなたとあなたのお母さんの夢」
「僕の母親に会ったことはないだろう」
チェンは鋭く言う。
「あなたとお母さんは喧嘩していたわ。そして,私をどうにかするって言っていた」
「幻覚だ。母親は僕が小さい頃に死んでいる。クスリのせいで,悪い夢を見たのさ」
記憶と想像を厳密に区別することは難しい。特に幻覚剤を常用するアンにとっては。
「とにかく元気になったら,出ていってくれないか。それは僕のベッドだ」
チェンは言う。
チェンのベッドは快適だ。清潔なシーツがかかっているし,スプリングもよく効いている。
「もう少しここにいたいわ」
「悪いけど,駄目だ。ここは僕の部屋で,君はただの店の客。これ以上はサーヴィス過剰だ。早く出ていってくれ」
とチェンは相変わらずクールだ。
「お礼をしてあげるわ。こんどはあなたが客になるの。あなたのベッドを借りて,私がサーヴィスしてあげる。それならどう」
「そんなことを期待して,君をここに運んだつもりはない」
「思わぬ好運っていうこともあると思うけど」
こんな時,アンは自分が小悪魔にでもなったようでゾクゾクする。
「残念だけど,そんな気分になれない」
チェンはあくまでそっけない。アンは少しがっかりする。
「女が嫌いなんでしょう」
思わずアンは言う。
「そんなことはない。僕がホモセクシャルだって噂してる奴もいる。でも,それは事実じゃない。僕はいたってノーマルな男さ。
そして,今はそういった気分になれない。それだけだ」
アンの魅力もこの男には通用しないようだ。
「じゃあ,しょうがないわね」
アンはしぶしぶベッドから起き上がる。
「防護服は?」
とアン。アンは下着しか身につけていなかった。
チェンは素早くコートハンガーから服をおろしてくれた。
「ありがとう」
言いながらアンは服のポケットの中身を確かめる。バイクの鍵と現金。何枚かのカード。すべてはそっくりそのままあった。財布の中の金も少しも減ってはいない。
「お礼は要らないんだったわね。じゃあ,ソルティドックの代金だけでも受け取ってちょうだい」
服を着たアンはベッドから降りてチェンの手に紙幣を一枚渡す。
「もうもらっている」
チェンは言う。
「嘘」
「確かにキミは僕に金を払った。酔っていて憶えていないかも知れないが」
なんだか変だ。クスリのせいで記憶が混乱しているのだろうか?
「そう言うんなら,いいわ。ソルティドックごちそうさま」
アンは言ったが,すっきりしない気分だった。
「リカコの家がどこにあるか知ってるか」
帰ろうとしているアンにチェンは言った。
「ネヴァダイよ」
「ネヴァアイのどこか分かるか」
「分かるわ。リカコはオペラ街道沿いのアパートに一人暮らしよ。一度だけ遊びに行ったことがあるけど」
「そこにもう一度,行けるか」
「行けるけど,どうしたの」
「つけがずいぶん溜ってる。それをとりに行ってくれないだろうか。もちろん報酬は払う。今日こそはと思っていたんだが,君のことがあって,逃げられてしまった。行ってくれないか」
「あなた,現金でしか商売しないんじゃないの」
「なかには例外もある」
「自分でとりたてに行ったら」
「そうもいかない。昼間は店があるし,夜はその準備で忙しい。一人で店をやってるんだ。人手不足で困っていたところさ」
アンに頼まなくてもいいような用件なのに,なぜチェンは突然こんなことを言いだしたのか。勘定のことといい,この男は何かを隠しているように思われてならない。
「いいわよ。でも条件がある。とりたてた金の60パーセントをアンの報酬とすること。必要経費として報酬の半分を前金で渡すこと。この条件をのんでくれたら,行ってもいいわ」
アンはさぐりを入れたつもりだった。アンの言った条件は相場とくらべてもあまりにアンに有利すぎる。
チェンは拍子ぬけするほどあっさりと
「ああ,いいとも」
と言った。やはりこれには裏がありそうだ。
「あなた何かたくらんでいるんじゃないでしょうね」
チェンはその質問に答えようとはしない。
嫌な予感がした。しかし,着替えも持たず家をとびだしたアンには金が必要だった。
チェンは封筒をアンに渡した。なかを確かめると,アンひとりなら2カ月は何もしないで生活できる額の紙幣があった。
「リカコはずいぶん飲むのね」
「いくら飲んでも酔わないんだ。店を開けてから,終るまで飲んで,それから何もなかったようにスクーターで帰っていく。確かな運転でね。彼女は本物の怪物さ」
「アンがこの金を持って逃げだしたら,どうする!?」
「警察に電話する,店の金を盗まれたって。ついでに君の商売のほうも話してしまう。実は君の家の電話番号もリカコから聞いて知っているんだ。家にも是非電話させてもらおう。ご両親はきっと悲しまれることだろうね」
「そんなことをしたら,あなたも困るんじゃないの」
「御心配なく。僕はいたってクリーンな男で通っている。証拠隠滅は得意分野だってことさ」
チェンはにやりと笑った。
「どうやらそんなに私に有利な話ってわけではないようね」
アンは2重扉をくぐりチェンの店を出た。
最高のゴーグル
外へ出るともう太陽は西の空にあった。アンの愛する昼間の世界は終り,健康的で退屈な夜がやってこようとしていた。
どこへ行っても厄介事ばかり,私の居場所はどこにもない。ただ,バイクの上だけが,流れ続ける景色のなかだけが,私を迎えいれてくれる場所だ。
アクセル全開で走っていければ,それでいい。少なくとも,速度は決して私を退屈させることはない。
電気ステーションでバイクを充電する。セルフサービスのステーションは死んだように寂しい。
充電用のケーブルをバイクに接続する。ゲージが動いて電気の残量を表示した。バッテリーの半分近くをアンは使っていた。
「いらっしゃいませ。当店へようこそ。充電ですか。それとも機械のチェックですか」 四角い充電機がアンに言う。こいつは原始的な音声認識能力を持っていて,ほんの少しだが客と話ができる。
「充電よ」
アンは言う。充電機はアンの声を理解して画面を変える。
「充電はフルチャージですか。それとも任意の電気量を補充しますか」
「フルでお願い。バッテリーがはじけるくらい」
「過剰な充電は故障の原因となりたいへん危険です。規定量通り,バッテリーの容量いっぱいに充電します。よろしいですか」
「いいわよ」
「フルに充電します。充電完了はピーという音でお知らせいたします。当店は料金前払いとなっております。画面に表示されている金額を料金スリットにお入れください」
「はい。はい」
アンはコインを10枚ばかりスリットに入れる。
機械っていうのは杓子定規で面白くない。しかし,嘘をつかないという絶対的な利点を持っている。
バイクに電気を食わせている間にアンも食事をとる。
ステーションのなかの自動販売機でホットドックとノンアルコールビールを買う。UVカットガラスで被われているのでここではマスクを外すことができる。それでもアンはゴーグルは絶対に外さない。
安価で街にあふれているガラスでは完全に紫外線を遮断することはできないからだ。アンのゴーグルは特別製だから大丈夫だが,眼にもしものことがあったらバイク乗りにとって致命症となる。
アンはゴーグルを買った店の店員が言っていたことを思い出す。
その男は店のなかでも最高級品の真っ黒なサングラスをかけていた。それがサングラスの宣伝になるとでも思っているふうに。しかし,そのサングラスは彼に全然似合っていなかった。
「バイクに乗るんですか。だったらいいレンズが必要です。車用のじゃだめです。規格が違いますから。車は窓で囲まれてます。あの窓だって少しは紫外線カットの能力があるわけです。だからチャチなサングラスでだってドライバーは眼を守ることができる。でも,ライダーはいつもむきだしですから,ドライバーより少なくとも3ランクは上のUVカットゴーグルが必要と言われています。バイク本体よりもゴーグルに金をかけたほうがいいくらいです。とにかく最高品質のものを買わなければ,後で後悔しますよ」
店員は私に言った。
私は店員の言い方が気にいらなかった。品質の良いものを買うのにこしたことはない。 しかし,過剰な装備で汗水たらして働いた金(私はそこ頃すでに身体を売って稼いでいた)を無駄使いするのは馬鹿げたことだと思われた。それに私は今乗っているエレクトラを買った直後で,早くバイクに乗りたくてしょうがない時期でもあった。
「私,あんまりお金持ってないのよ。車用でいいから。今すぐゴーグルを売ってちょうだい」
「そいつは賢い買物とは言えませんね。もう少しお考えになったほうがいいですよ」
しつこい店員。私は腹をたてて叫んだ。
「安いゴーグルをつけてたからってどうなるっていうのよ」
店員は少し驚いた様子だったが,気をとり直してサングラスに手をかけた。
「こういうふうになるんですよ」
店員はサングラスを外した。
右目はごく普通だった。しかし左の目蓋のなか,そこには得体の知れないものがあった。 緑と茶色,そして黄色の油絵具をかき混ぜたような色をしたもののなかに赤い血管が浮き出し,脈動していた。
「眼の細胞が癌化しています。眼球癌です。珍しいケースではなく,現在では比較的よくある病気です。現在の太陽光線のなかには紫外線だけではなく,もっと有害な波長の不可視光線も混じっていて,それが神経細胞に強烈なダメージを与えるのだと医者が言っていましたね。視神経は脳とつながっていますから,あっという間に腫瘍は脳へと転移します。手術は不可能。私の場合もそうです。あと半年たったら私はおそらくこの世にいないでしょう。それまでに一人でも多くの人に有害光線をシャットアウトするゴーグル,サングラスを提供するのが私の使命だと思っております。私のようにならないためにもいいゴーグルをお勧めしますよ」
そう言い終えると店員はまたサングラスをかけた。
アンはその日,当時最高級の,そして今でも最高品質のゴーグルを買ったのだった。
しかし,アンは時々思うのだ。アクセル全開でふっとばししても気分がスカッとしない時なんかに。気分が晴れないのは私とこの世界が強化レンズによって遮られているからかもしれないって。
このゴーグルが私を閉じ込めている。安全とひきかえに私は何かを取り逃がしている。 青い空が見たい。それはとても残酷な色だろう。でも,アンが今求めているのはその残酷な青さだけなのかもしれない。
Piiiiii…………充電完了を告げる電子ブザーが鳴っていた。アンはゴミをダストボックスに捨てるとマスクをしっかりとつけ直して,外へ出た。
モーターを始動させ,アンは東,ネヴァダイ・シティへハンドルを向けた。
Never-Die
ネヴァダイシティのゲートをくぐる頃には,もう夕暮れになっていた。アンはヘッドライトをつけ,サングラスを外した。
ゲートには「我をくぐる者は永遠の悲しみに至る」と黄色いスプレーで落書きしてあった。
NEVER-DIE=不死都という街の名は,「死」の一字が入っているせいで,全体の持つ意味とは裏腹に不吉な印象をアンに与える。
ネヴァダイは盗品売買の街だ。ショーウィンドウに並ぶ商品のほとんどがヤバイ品物。でも,絶対足はつかない。この街を流れていく間に証拠が消されていくのだ。
街の中央にある公園には7色に輝く噴水がある。それがこの街の唯一の彩り。
その噴水の美しさが,照明によって作り出された錯覚にすぎないことを知っていても,やっぱりアンはその色が好きだ。
アンは錯覚を信じている。
ファルセッツというバンドの電光掲示ビルボードがショートしながら流れていく。文字だけで写真なし。それはもっともな話だ。
ファルセッツはもとウィーン少年合唱団だった2人の男,ジミーとミカエルの成れの果て。ぶくぶく太った中年男の喉仏から絞り出されるのは澄んだボーイソプラノ。喉に埋め込んだオクターバーを使って,ありえない歌声を響かせる彼らは,理想と現実の狭間で引き裂かれたこの街にバッチし似合っている。
リカコに電話をかけたが,留守だった。
留守番電話がアンに答えた。「リカコです。ただいま外出しています。今日は帰ってきません。またのお電話をお待ちします」
明日の朝もう一度電話をすることにし,今晩のねぐらを探した。
アンは繁華街から少し外れた通りに,古いホテルを探しあてた。
建物は大きくて立派だが,もう何年も改修がされていないらしい,古ぼけたホテルだ。
「24時間 OPEN 高級ビジネスホテル PARKS」という看板がかかっている。自分で高級と言っているところが怪しい。おまけにその看板は斜めにかしいでいる。
しかし,ネヴァダイには詳しくないので,別のホテルを探すのは止め,このホテルに泊まることにした。どうせ,長い逗留にはならないだろうし,アンは眠くてこれ以上バイクに乗り続けるのは無理だった。
回転ドアを開けると小さなロビーがそこにある。フロントのデスクには黒い制服を着た若い男が机につっぷした姿勢で本格的な居眠りをしている。アンはなるべく大きな足音がするようブーツの踵で地面を蹴るようにして,彼に近づく。
それでも男は目を覚まさない。アンはデスクの上にあった金メッキのベルをリンリン鳴らす。
男はやっと目を覚ました。アンがいるのに気づくとハッとしたようすで衿を正す。
「御宿泊でございますか」
何もなかったとばかりに,やけにはっきりした口調で男は喋る。でも,男の目は真っ赤に充血し,口には涎の跡が光っている。無理したって無駄なことさ。私はちゃんと知ってんだから。
黙ってうなずくアン。にっこりと男に微笑みかける。少し皮肉な笑顔になったかもしれない。
「お名前は」
「キャサリン・ヘイブン」
アンは偽名を言う。トラブった時に足がつかないように。でも,これではまるで私自身が誰かから追われてるみたいだ。
偽名を使ったのは嫌な予感がするからだ。心がざわついて落ちつかない。きっと悪いことが起きる。その予感は確信に近いものだった。
部屋には窓がなかった。そのかわり巨大な液晶テレビが壁にかかっていて,外の景色を映し出していた。
明るく照らされた表通りをオフィスへと向かう夜勤のビジネスマンが歩いている。
夜は彼らが働く時間だから,私たちは眠る。彼らが仕事から解放される時,私たちは彼らに身体を売る。そして彼らのサラリーを吸い取ってしまう。私たちはその金で彼らからモノを買う。
これは社会的分業,時間による住み分けだ。こうして街は24時間動き続けるのだ。
アンのポケットのなかにはまだアパシーが残っていた。それを全部口に放り込むと頭の芯がとろとろに溶けた。
眠りに落ちる直前,薄いホテルの壁越しにたぶんテレビだろう,ファルセッツの甲高い声が聞こえてきた。
アンは舌打ちをしたが,その声は眠りの底まで響き続けた。
終りなき世界 ファルセッツ
あなたの消えた夜に月が昇る
あなたの消えた朝に太陽が昇る
何も変わらぬように街は目を覚ます
何も変わらぬように街は眠りにつく
私はひとりきり立ち尽くしてる
終りなき世界
もう何もないのに
終らない世界に
rikakoを探して
翌朝,リカコのアパートに電話をかける。
今度は留守ではなかったが,何度かけても話し中だった。
気の短いアンは,約束なしで,リカコの家におしかけることにした。
彼女がいることは確かなのだ。今行かなかったら,多忙なリカコのことだ,今度はいつ捕まえることができるか分からない。
10分後,アンは地下鉄のホームにいた。
バイクはホテルに預け,地下鉄を使ってオペラ街道へ向かうことにしたのだ。昨日一日中サングラスをかけていたので,色のある風景が見たかった。
ホームの隅にはごろつきがたむろしている。物騒な奴等を避け,乗客は一カ所の昇降口に固まって電車を待つ。
アンは乗客とごろつきの中間の位置に立っている。それは文字どおりアンの立場を表している。
境界線を歩む者にはその両側から悪意の視線が放射される。
ごろつきの一人がアンに声をかけてきた。
「俺,最高の奴持ってるんだけど」
「最高の何?」
ひょっとしてクスリの売人じゃないかと思って答える。アパシーは昨日でなくなってしまったし,ちょっと高くても今は余裕がある。
「最高のキ・ン・タ・マ」
男は言い,アンは失望する。それはホントに必要のないものだ。
「いいんだぜ。俺のは。ぶっとくて,しゃぶりがいがあるぜ」
男は笑いを浮かべながら続ける。アンはそんな話聞きたくない。
「気取ってんじゃねぇよ。やりてぇんだろ」
男がアンの耳元でささやく。でもアンは全然そんな気分にはならない。
「気取ってないわ。でも,タダじゃやらないことにしてんの。感じないから」
「おれとやればサイコーだぜ」
「いいえ。私を感じさせてくれるのは,お金だけよ」
きっぱりとアンは言う。
ヤバイ雰囲気になりそうになった時,電車がやってきてくれて助かった。アンは素早くドアをくぐり中に入る。電車のなかはテリトリーが違うのでホームの奴等はやってこれない。
でも,電車のなかにもそこ専門の物騒な奴等がいて,かっぱらったり,ぶっ刺したりしようと狙っている。アンを安心させてくれる場所なんて何処にもない。
リカコのアパートの入り口は地下鉄の駅から続く地下道にあった。地下道にはたくさんの浮浪者がいた。ここは,冷暖房完備の彼らの寝床だ。いつだって快適。だから彼らは絶対にここから脱出できない。
リカコのアパートの入り口には警備員がいた。眼鏡をかけた初老の黒人男で鋭い目をしている。この男の眼光のせいか,アパートの入り口の近くには浮浪者は1人もいなかった。
リカコに会いたいと警備員に告げた。友達だと言ったが「NO!」の一言で取り次いでくれない。
いい警備員だ。職務に忠実で疑り深い。自分がアパートを借りるとしたらこんな警備員のいるところがいい。
だけど,今のアンにとっては,この警備員は最悪だ。なんとかして入れてもらわなければならない。
「友達なの。電話番号も覚えてるわ」
アンはリカコの部屋の電話番号を言った。
電話番号が本物であることを確認して,警備員は電話をかけた。
「アンジェリカ・サイトウという方がみえられています。お会いになりますか」
しばらく会話が続いた後,警備員は
「どうぞ。お入りください」
と言い,やっと通してくれた。アンは心のなかで小踊りした。
リカコの部屋のドアにはライオンの顔の形をした古風なノッカーがついている。
ノックしようと思いノッカーの取っ手を掴むとドアが開いた。不用心だと思ったがアンはそのまま部屋に入った。
そこには思いがけない人物がいた。
「リカコは留守よ」
そう答えたのはドールハウスのオーナー,サキだった。
実物のサキを見るのは初めてだった。その姿は立体映像よりもずっと歳をとっていた。同じような黒いドレスを着ていたからその違いは特に目立った。彼女はアンの母親と同年代だと思われた。ただし,彼女はアンの母よりずっと美しかったし,金のかかった上品な身なりをしていたが。
「初めまして,アンジェリカさん」
サキは彼女の名前を知っていた。
「リカコに会いに来てくれたのね。でも彼女はもうここには帰ってこないわ」
リカコの部屋はもぬけの空だった。倉庫のような虚ろな部屋のなかには大きなテーブルと2つの椅子だけが残されていた。
「リカコは?」
アンは様子が分からずサキに聞いた。
「彼女は遠いところに行ったわ」
「いつ帰ってくるの」
「もう帰ってはこない」
「なぜ」
ワードローブの扉が半分開いていた。アンは中を見た。
そこにリカコとタイマーがいた。2人とも全裸で身体を滅茶苦茶に刺されていた。タイマーは傷口から内臓の一部をはみ出させていた。
「見てしまったのね」
そう言って,サキは立ち上がり,ハンドバッグからピストルをとりだした。
アンは机をひっくり返し,盾にした。すかさず銃声。アンは走って部屋を飛び出した。
アンは地下鉄の駅へ急ぐ。
昨日から続いている胸騒ぎが強くなる。胸の内側に針金の形をした虫が跳ねまわっているような不快感。
そしてアンはシャーという何かが回転する音を聞いた。
振り向くとアイスホッケーのプロテクターをつけ,足にローラースケートを履いた奴等がアンに向かって滑ってくるところだった。全部で5人。みんな金属のスティックを握っている。
アンは壁際に避けたが,彼らは走りながらスティックでアンを殴った。その内の一つが顔に当たり,アンはあっけなく倒れてしまった。ヌルヌルとした感触と鉄の味が口一杯に広がった。口のなかが切れていた。
奴等はアンを囲んだ。
アンは顔をあげ,彼らを見た。
NEVER-DIE ROLLERS
彼らの胸にはチーム名が書いてあった。
「サキさんはあんたを家に招待したいそうだ」
ローラーの一人が言った。その言い方は平板で,冷酷そのものだった。
「私たちから逃げようとすれば殺す」
ふりかぶった金属のスティックが地下街の照明に青白く輝いた。
アンは彼らに従うほかなかった。
Saki
奴らの一人が持っていたガムテープでアンの自由は完全に奪われた。まず,口にエラステ
ィックのボールが詰め込まれ,その上からテープが巻かれた。次に腕と胴体をテープで幾
重にも巻かれ,両足首もしっかりと固定された。最後にアイマスクのかわりにまぶたの上
にも,ぐるぐるとテープが巻かれた。その間僅か1分足らず。手際はプロのものだった。
貨物よろしくアンは梱包されてしまった。
ローラーの回転する音。いくつものコーナーを曲がるのが辛うじて分かる。口の端から
流れる涎。それをふき取る自由さえ奪われたまま,アンは運ばれていく。自分が物になって
しまったような気がした。実際奴らにとってアンはただの荷物にすぎないのだろう。
自由を奪われた全身は痛みを訴え続けている。そしてまたしても吐き気に襲われる。吐
き気,そうだ,いつだって吐き気がする。この薄汚れた世界に吐き気がする。閉塞した状
況に吐き気がする。無力な自分自身に吐き気がする。闇の中でアンは考える。この嫌悪感こ
そが真実なのだと。世界は痛みと吐き気に満ちている。それらはいつだってアンの周りに潜
んでおり,ちょっとでも隙を見せれば襲いかかってくるのだ。
吐き気が限界まできたとき,動きは止まった。身体を縦にされる。目に巻いていたガム
テープが乱暴に剥がされる。痛い。
強烈な光が差し込みアンは眉をしかめる。閉ざしていた瞼をゆっくりと開ける。押さえつ
けられていた眼球のせいで一瞬シャボン玉のような色が見えたが,それはじきにおさまっ
た。意識的に焦点を調節する。視界がシャキッとした。アンの目の前に白くてほっそりとし
た指が一瞬見えた。すぐにそれは消え,指の向こうにある景色が見えた。
そこは白い部屋だった。病室,しかも精神とか神経に関わる病室のような印象があった
。奥に椅子があり,そこにリカコが座っていた。身体中の筋肉がゆるみきったような崩れ
た姿勢,目は虚ろに宙をさまよっている。
「長旅ご苦労様」
目の前にヌッとサキの顔が出現した。首を動かすことが出来ないせいで,視野のなかに唐
突に姿が現れるのだ。それはまるで監視カメラで見ているような非現実感があった。
「リカコがあなたを呼んだのよ」
サキは言った。
リカコが歌いだす。曲は「夢見るシャンソン人形」。古い歌だが,ファルセッツが歌っ
て少し前に再ヒットした曲だ。
「あなた,人形になりたいとは思わない。人形は何も考えなくていいの。寂しくもないし
,痛みもない。リカコは人形じゃなくて,サイコになっちゃったけど,結局は同じよ。考
えないってこと。リカコはいろいんな嘘で心を固めていたけど,それを剥がせば脆い存在
だったわ。サイコは要らないんだけど,彼女は特別可愛いから生かしておくの。あなたは
,人形,それともサイコ,どっちになりたい。人形なら私は高く買うわ。壊れても絶対直
してあげる。心配は何も要らないのよ。人形はすでに私のお店で経験済みよね」
不気味なことをサキが言うので,アンの背筋に寒けが走る。アンは人形もサイコも御免だ。
「ド-ルハウスは文字通り人形たちの家。あなたや昔のリカコのように思考が残っている
のはごくわずか。後は自分の記憶を全部白紙にしてるわ。みんな自分たちでそうしたの。
この救いようのない世界では人形になったほうがむしろ幸せ,そうは思わないこと。答え
を聞かせて」
サキは乱暴にアンの口のガムテープを剥がす。
アンは口に入っていたボールをサキに吐きかける。これが答えだ。
「子供っぽいことしないの」
サキは笑いながら素早くアンの頬に平手打ちを加える。
そして素早く電極がつながったヘルメットのようなものをアンの頭に被せた。
「何をする気?」
「夢を見るのよ」
「夢なら毎日見てるよ。悪夢をさ。あんたたち早く消えてよ。もう起きなくちゃ」
アンは精一杯毒づく。
「いい子にしてればいいの。映画は好きでしょ,あんなものよ」
サキは努めて優しい声を出しているようだ。それがかえって気持ち悪い。
「見たければ自分で見るわ。入場料を払ってね。」
アンはなおも虚勢を張るがそろそろ限界だった。彼女の生命線はすべて彼女に握られている
のだ。正直に言えば恐い。ただアンがいきがって見せるのはアンを恐がれば,恐がるほどサキ
の思うつぼだという気がしているからだ。
「ド-ルハウスにはね,秘密があるの。なんで人形たちが存在するのか,そしてどんなふ
うに行動すればいいのか,あなたが立派な人形になれるように頭のなかに直接記憶を書き
込むわ。目を開けている必要もないし,耳を澄ます必要もないの。リラックスして,ただ
夢を見ていればいいの。私が夢を送ってあげる」
サキは嬉しそうに言い,緑色の液体の入ったアンプルを切った。
「錠剤のほうはあなたも試したことあるでしょ。意識を広げるための薬よ。今度はお注射
するわよ」
「嫌だって言ったら」
「言わせないわ。私はもう決めてるんですもの」
サキは言いながらアンプルの中身を注射器で吸い上げた。
「ざけんなよ!」
アンは声の限りに叫んだ。身体に力が入り,一瞬背中が浮いた。慌ててアンの体を押さえ,
サキは注射器の針をアンの腕に突き刺した。
血流と一緒にクスリは頭のなかに入ってきた。金槌で殴られたようなショックで一瞬呼吸が止まる。
サキの声が次第に遠くなる。アンはまた,いつか見たような地獄を見ることになるかと思
うとぞっとした。
「チェン,助けて!」
とっさにアンは叫んでいる。全ての発端を作った男,この前のバッド・トリップから助け
出してくれた男。気障ったらしい商売上手を鮮明に心に描く。
瞬間,遠くで何が大きなものが動く気配を感じる。
悪夢再び
必死で意識を維持しようと目を見開く。しかし,何も見えない。この前と違って目の前
には虹色のもやがかかったように感じる。そして,その虹は呼吸を繰り返すようにゆっく
りと動いている。その動きがひとつの形を作りだしていく。アンは自分の目を擦ろうと右手
をあげ,その時自分の身体が完全に自由なのを知った。
「もう,あなたは私の夢のなかにいるの」
虹のなかに浮かぶ顔,サキは言った。
「嘘」
アンは言う。
「簡単な仕掛けよ。私の考えてることをケーブルであなたの脳に送っているの。グリーン
が脳の回路を完全に開けてくれているから,あんたの中身は手にとるように分かるわ。楽
しいおもちゃでしょ」
「違法だわ」
「そう,でも分からなければいいの。リカコが都市のコンピュータに侵入したように,私
はあなたの頭のなかを侵すの」
頭のなかが痒い。サキがアンの記憶を探っているのを感じる。
「あなたの頭を少しいじらせてもらうわ。もう,下らないことは考えなくてもすむわよ」
サキの思考がどっと流れ込む,と同時にアンの思考は弱まっていく。アンは自分自信がアン
ジェリカ・サイトウなのか,サキなのか分からなくなっていく。
もうこれで何度目だろうか,私の記憶を他人に書き込むのは。いや正確にはそうではな
い。記憶が私そのものなのだ。21世紀の始めに記憶と思考のコードを極秘に解明して以
来,もう何代も旅を続けている。
サキは不死だ。たとえ身体が死んだとしても,その時は,人形に書き込んであるサキの
記憶が目覚め,その女が新しいサキになる。ドールハウスは蜂の社会だ。女王蜂が死ねば
,働き蜂から女王が出る。
アン,あなたにも女王蜂になるチャンスが与えられるのだ。私たちは新しい血を求めて
いる。さあ,私になるがいい。
霞む。霞む。いくつもの景色が音が,匂いが,香りが,手触りが浮かんでは消えていく
。それは決して消えはしないで,頭のなかに書き込まれていくようだ。アンにはサキの全て
が理解できる。なぜなら私はサキだから。不死を目指して自らの記憶を他人に書き込み,
時を越えていく旅人。記憶転送システムの維持のために,そして××××のためにド-ル
ハウスを作り,獲物を待ち構えている女郎蜘蛛。
××××とは?
××××が本当の目的だった。だが,もうそんなことはどうでもいい。それよりド-ル
ハウスの維持が大切だ。たとえわが子であっても邪魔をするものは許せない。新しい身体
が必要だ。このボディーは歳をとりすぎた。
終わりだ。もう全て,終わりにしよう。
チェンの声が割り込んでくる。
助けに来てくれた(邪魔しに来たのね)。
母さん,もう他人の身体を奪う必要はない。僕たちは永遠を手に入れた。コンピュータ
のなかにいればいいんだ。人間の脳を遥かに越えた速度で稼働する機械だ。僕たちにはも
う肉の身体は必要ない。機械のなかでだって僕たちは生きていけるんだから。それにもう
ド-ルハウスは当初の目的を果たした。
うるさいね。あんたは前の代から,甘ちゃんになってしまったね。きっと元の持ち主の
記憶の残りのせいだろうね。
そうかもしれない。でも,それは母さんも同じさ。何回も生まれ変わることで,あなた
の記憶もすっかり汚れてしまっている。最初の母さんは,あなたみたいに冷酷じゃなかっ
た。幾度もの再生で,身体の持ち主の残留記憶に汚染されてしまったんだ。
機械は要らないよ。美しい景色や音を感じる楽しみがなくなるのなんて,私は御免だよ。
そんなもの機械のなかにだってある。どんなに言葉を飾ってみてもあなたの心は筒抜け
だ。あなたは他人を支配するのが楽しくて仕方ないだけなんだ。もう止めよう。僕たちの
記憶はほんの断片も残さず機械に流し込むことができる。これ以上記憶を汚すこともない
。
お黙り,邪魔すると許さないわよ。
サキの思念が赤く爆発する。チェンの白い光がそれと衝突する。2つの光はからまり激
しい渦になる。光が視界を埋め尽くす。光の濁流にアンは飲み込まれる。
奇跡
再び,アンは現実の世界に戻っている。アンは自分が拘束されているのを知る。身体中が痛
い。この痛みこそが現実の証だ。
チェンが立っている。チェンはアンの戒めを無言で解く。ガムテープを剥がしたアンの手首
は赤く腫れている。それをさすりながら,アンはチェンに聞く。
「一体,何があったの。そして何がなかったの」
チェンはずっと無言でただ床に倒れているサキの身体を抱き上げる。
「一人のサキが死んだ。そして,僕の一人も」
「あなたは生きているじゃないの」
アンにはさっぱり分からない。
「僕は僕の影だ。サキと同じさ。この身体に記憶をコピーしたんだ。本当の僕はこの街の
地下にあるコンピュータのなかにいる。本当のサキもそこにいる。ただ生身の身体をもっ
たサキの一人が暴走したのさ。残留記憶にひきずられて,人格が変化した。手段を目的と
誤ったのさ。コンピュータのなかのサキは生身のサキのせいでさっきまで機能を停止させ
られていた」
「そうなの」
アンは相槌を打つが,チェンの言っている意味の全てが分かったわけではない。
「僕は自分自身を2つコピーした。一つは今僕がいるのより少し小さな機械のなかに,そ
してもう一つは君が今見ているチェンという男の頭のなかに。さっき死んだのは小さな機
械に入っていた僕さ。サキと相打ちになった。機械の回路は焼ききれているだろう。そし
てサキの心臓はパンクした。これでいいんだ。君はよくやってくれたよ」
「私は何もしていないわ」
「全ては僕が企てたことなんだ。サキを止めるために。この都市の管理コンピュータに忍
びこんでリカコに贋の経歴を作ったのも僕。コンピュータ同志ってのは接続が簡単だから
ね。手なづけるのはたやすいことだった」
「お母さん,どうしたの」
リカコがとんできて,サキの頬をつつく。
「お母さんはね。ちょっと眠っているだけなんだよ。疲れたんだったさ」
チェンは優しく言う。
「リカコがこんなふうになるのもあなたの計画のうち」
「違う。これは誤算だった。サキがリカコを壊してしまうとは思わなかった。キミがやっ
てくれた仕事は本来彼女に受け持ってもらうはずだった。サキがリカコに記憶を移す瞬間
に割り込んで,サキを止める。それが計画だった。君は言わばスペアパーツさ。もしもの
時のために,君を雇ったんだ。僕の店でリカコの薬,グリーンドリームでトリップした時
,キミの頭のなかに仕掛けをした。一つは外部からの記憶の書き込みをできないように,
もう一つは無理やり記憶を書き込もうとすると信号を出すようにした。その信号をキャッ
チした2人の僕の影が行動を開始するように。機械の僕はサキと戦い,チェンはその信号
の発信地に来る。全てが終わった時,仕掛けが外れるようにしておいたから,キミの頭の
なかはもう元通りだ」
「簡単に言うけど,随分酷いことしてくれたわね」
「冷血なのさ,不死の一族は。さあ,これが約束の残りだ」
封筒を渡すチェン。厚みから見ても明らかに約束の金額より多い。
「迷惑料も入っている。あと口止め料も。非合法である我々の存在が知られないように」
「言っても誰も信用してくれないわ」
「ドールハウスは閉店だ。資金調達のため必要だったが,もう準備は完了した」
それだけ言うとチェンは鋼鉄の扉を開け,外へ向かう。アンとリカコもその後を追う。
外は夜だった。
黒いリムジンが停まっていた。後ろのドアを開け,サキの死体をバックシートに座らせ
る。
「時は満ちた。今夜奇跡を起こす」
チェンは腰に下げていたキーホルダーのようなもののスイッチを押した。
そのとたん激しく地面が振動した。
「何!?」
街の向こうが赤く光っていた。光は数百はあるかと思われた。そして,その光は尾を引
きながらしだいに上昇していった。光のカーテンのようだと思った。光の上方に小さく影
が見えた。
道行く人は皆,天を仰いでいた。
「ありゃ,ミサイルだぜ」
「何のために打ち上げたんだ。旧軍隊の機械が誤作動したんじゃないのか!」
騒然となった。
「さあ,チェンの家に帰ろう」
リカコの肩を抱き,リムジンに乗り込むチェン。
「リカコは私が治療する。治るかどうか分からないが,一生面倒は見る。君はどこへでも
行くがいい」
夜目にもキラリと光るものをアンに放るチェン。受け取るとバイクの鍵だった。
リムジンが走り去ると,そこに新品のバイクがあった。エレクトラの最新モデルだった
。今までのアンのバイクの後継機種にあたる。最高速二百キロ,航続距離も2倍以上になっ
ている。
アンは新しいバイクにまたがり,キーをオンにした。スタータボタンを押すと静かなモー
タの回転音が聞こえてきた。
その夜はとりとめのない思いを抱えたまま,街を流していた。そして,朝を迎えた。東
の空が白んで来る頃になって,ゴーグルを持っていないことに気づいた。
幸い紫外線警報のサイレンはまだ鳴っていなかった。アンは太陽に背を向け,逃げ場を探
した。しかし,店や地下街への入口は全て閉ざされていた。
アンはそのまま走り続けた。しだいに車の数は減っていき,最後はアンだけになってしまっ
た。黒かった空が紺色に,そして青に変わった。雲一つない8月の空がアンの頭上に広がっ
ていた。
アンは疾走し続けた。周囲を見渡すが日が隠れるような場所さえ見つからない。こうして
いる間にも紫外線はアンの顔を焼き,昼頃までには酷い火傷になっているだろう。そして夕
方には皮膚がめくれあがり,再生不可能な傷を残すだろう。瞳も焼けて,失明は免れない
。さらには・・・。
アンは恐ろしくなり、アクセルをいっぱいにふり絞った。
「あせるな。アン」
チェンの声がした。頭のなかでだ。
「このメッセージがほんとに最後の仕掛けだ。もう、太陽光線は無害だ。僕が打ち上げた
花火がオゾン層を復活させた。効果は半永久的だ。ゴーグルは要らない。これが僕の言う
ところの奇跡だ。ただし、20世紀前半程度の紫外線は透過しているから、日焼けには気
をつけて。せいぜい生身の身体があるうちに世界を楽しむがいい」
アンはアクセルを戻し、静かにバイクにブレーキをかける。そして、誰もいない路上で空
を見上げる。
青い。空はなんて青いんだろう。そしてこの空は遠く、遠く、続いているのだ。柄にも
なく涙が出てくる。
閑散とした街に向かってアンは大声で呼びかける。
「おーい、みんな出てきなよ。初めての青い空だよ。こんな青空の日にはどこかに出掛け
なきゃ嘘だ」
叫び続けると、声を聞いた市民の何人かが紫外線防護服で身を固めて外に出てくる。し
ばらくするとそれは群衆に変わった。何人かはよほど驚いたのだろう防護用にか金属バッ
トやスタンガンを持っている。
アンは彼らの前で防護服のファスナーを開ける。何もつけていない胸が露になる。どよめ
く群衆にポーズを取り、アンは言う。
「COME ON!」
右手で合図をして、それからアクセルをゆっくり回す。初めて素肌に感じる風のなかを
アンは走り始める。
青い空の下、私たちは自由だ。
(了)
